今日の自由連想。
この自由連想の作業を始めるとき,何を書くかは考えていない。書いているその場で次の文字を考えていく。その場の思いつきだけで書いていくのだ。この作業では,心理的に盛り上がったり,盛り上がったりしない。感情の起伏はまったくない。平らな心のままである。しかし,この作業が終わると,もやもやしたものが取れるので不思議である。逆に考えれば,心にもやもやが生じたときに,この作業がしたくなるのかも知れない。
今日は,VOX に登録してから1年になるので,無理矢理書いているのである。もやもやがないので書くことがないはずなのに,書けるのはなぜか。心の中では常に言葉で会話しているからである。その会話は自分の中から生まれたものである。
普段の生活において,自分の内部と外部との情報の流れを観察したとき,内部から外部への発信よりも,外部から内部へ流れ込んでくる情報の方が圧倒的に多い。新聞を読んだり,ブログを読んだり,テレビを見たり,ラジオを聞いたりするとき,情報は外部から内部に流れ込む。逆に内部から外部へ流れ出す情報はほとんどない。
これではバランスがあまりにも悪いので,何かしらの方法で外部に情報を発信する必要がある。その方法の1つが,この自由連想の作業なのである。仮にこの文章を公開しないことにしたとしても,この作業は内部からの発信になるし,受け取り手も少なくとも1人はいる。自分である。自分で書いたものを自分で読むというループに意味はあるのかという疑問も湧くが,経験上,意味があると自信を持って言える。心の内部だけで対話をしているのとは別の視点から自分の思考を見直すことができるのだ。
そして心が少しだけ楽になる。
今日の内省。
嬉しいこと,ワクワクすることが沢山起こることを想像してみよう。今までで嬉しいことって何かあっただろうか。子供が生まれたこと? 女とのセックスに成功したこと? 性交に成功? ふふふ。
よく考えてみると,嬉しいこととワクワクすることは別のことだ。ワクワクすることは期待することだ。今までどんなことがあっただろうか。思い出せない。ワクワクすることがなかったのではないかと思えるくらいだ。日記に書いてこなかったから,その記憶の糸を手繰り寄せることができない。だからといって何も感じない日常が続いていたわけでもない。すべては日常の中に埋め込まれている。自分で感じなくしているだけなのだ。
しかし,すべてのことに感じるようにしていたのでは身がもたない。感じるようにするには神経をむき出しにする必要があるが,普段の生活でむき出しにしておくにはリスクが大きすぎるのだ。それを長年の経験から学んだ結果が今の状態なのだ。では鈍感になってしまったのか? 正確には「鈍感にしている」だろう。敏感になるべきシチュエーションを選択しているだけなのだ。
ある一定の状況に自分の身を置くときに,敏感になる。敏感な神経を外気に触れさせるのだ。その一定の状況を作り出すには,儀式が必要だったりするのだが,それをコントロールできるようになっていることが大切なのだ。楽器を演奏するには,ケースから楽器を取り出して構えるまでが儀式になる。自分の心の状態を変えるために外の環境を使う。その環境を作り出すのは自分のコントロールなのだ。
今日の内省。
A4用紙1枚を埋めるのに,約15分かかる。私がやっているのは,1日15分だけである。その間は十分集中力が持続する。これを何セットもやって,自分の限界に挑戦するのもいいかも知れない。インターバルは区切りに入れるといいだろう。例えば,インターバルには紙に書いた文字を入力するという作業を行ってもよい。そうすれば,もう一度読み直すことができるし,漢字が出てこなくてひらがなになっている部分を漢字に直すこともできる。パソコンに入力することは,後で読み返せるようにするためであり,読みやすいように加工する作業になる。
ただし,その作業の中で文法的におかしい部分を直すかどうかは,選択の余地がある。つまり,文法的におかしい部分は読んでいておかしく感じるところでもあるが,思考としてはその間違いを引き起こしている何かがあることになり,もしかすると,その変な部分に自分の思考の特徴が表れている可能性があるからだ。
この日記を始める際に目標にした「文法を越える」はこの意味であって,そこから何か別のことが得られる可能性を潰さないことを言っている。まわりくどく考える自分もいるだろうし,直線的に進む自分もいる。
迷路に入り込んだときに,文法が乱れるのではないか。その迷路をどう解釈するかは,別の問題とすることができる。最初のうちは読みやすいようにある程度解釈し,慣れてきたら変えないようにしていってもよい。自分の思考は日々変わっていくが,なくなるということはない。安心してよい。軌道修正はいつでもできる。
この日記の書き方について。
やり方は簡単。何も考えずに,というよりも書いていることだけに集中して,休まずに書き続けるだけである。この「休まずに書く」というのが重要である。書くのをやめて,いったん落ち着いてしまうと,次に何を書こうかと思案してしまう。そして書く内容を頭の中で再構成し始めてしまうのである。ここではそれを雑念という。文章の構成を考えてはいけない。思いのままを書いていくだけに徹底する。だから次に何を書けばいいか分らないという状態になる。漢字を忘れたときは,そのままひらがなで書いてしまうようにする。漢字を思い出そうとするだけで思考の流れが止まってしまうからだ。どこまで自分の思考に素直になれるかがポイントである。この手法が成功するかどうかは,そのこと1つにかかっている。何も足さない。何も引かない(どこかで聞いたな)。
流れ出るままを文字にしていくという,単純な作業になる。まわりのことに少しくらい気をとられてもいい。ペンが動き続けていればいいのだ。書いているうちに複数の考えが脳裏をよぎるかも知れない。その考えまで雑念として切れとは言わない。雑念があってもよい。しかし,それはメインストリームを邪魔してはいけないのだ。メインストリームは,あくまで書くという作業と,書くということを生み出す思考になる。それだけを守って続けていけば,ほんの数センチ先の未来だけが見えてくるようになる。それを追いかければいいだけなのだ。そんなことをして何になるか? と疑問に思うかも知れない。しかし,やってみると分る。何文字か先しか見えない思考は,思わぬ新しい閃きをもたらす。先に書いた「数センチ先の未来」は,書いているその文字の先の数センチを意味するだけの言葉である。しかし,これは先ほど書いていて偶然出てきた言葉なのだ。書いている瞬間に出てきた。自分から出てきた言葉なのに,感動を覚えた。そういった発見が得られるのである。
今日の内省。
疲れている時に自分の心を見ようとする。心の中を見るのではなく,心から出てくるものを紙の上に書いていくのだ。直接自分の心を見ることはできない。心がどのような構造になっているのかを知ることもできない。しかし,心から出てくるものは知ることができる。心から出てきたものを見ることで,間接的にどのようなものかを知ることができるのだ。
疲れているときは,余裕がない。余裕がないと,無駄なネタ的なことを考えずに済むのだ。うまくまとめようとか,そんなことを考えずに,自分の気持ちを直視できるのだ。
何もないところからも生み出されるものがある。他人を騙したり,言いくるめたりすることもない。そうすると実につまらない人間になってしまうかも知れない。そうなのだ。本当は面白くなんてないのだ。ただ坦々と生きて,淡々と自分で語るだけなのだ。それが他人を感動させる物語でなくてもよいのだ。
今日はかなり疲れている。
今日の内省。
今日も何も成果があげられず,ただ無駄に時間が過ぎていくだけだ。無駄な時間は,ソーシャルブックマークやメールのチェックにあてられるだろう。他人の記事をぼーっとして読み,少し違うと思いながらも,書き手の言おうとしていることを汲み取ろうと努力するだろう。そして,その真意が最も現れている表現を見つけようとするだろう。しかし,それには多大な努力を必要とするのであり,私の体力と時間の2つを同時に奪っていく。体力と時間を使うことは,ある意味で仕事であり,そうして過ごした後は適度な疲労感と充実感に満たされる。しかし,そうした幸福の感覚とはうらはらに,冷静になってみて何もしていないことに気づくと絶望が襲ってくる。今日1日は休暇ではなかったのか。他にする仕事はなかったのか。疲れたフリをして雑用をすべて妻に押し付け,自分だけの世界に浸っていたのではないか。浸ることはある意味でいいことである。そこから何かが生み出されていれば,必要なことだ。何事も成し遂げるには集中する長い時間が必要であり,その時間はどっぷり浸かって,邪魔されないことが大切だ。そうすることで,精度の高い成果物が得られ,その成果物は他人の役にも立つものになる。そのことにより,単なる自己満足ではない,他人を巻き込んだより大きな満足が得られるのだ。問題は,その集中している時間,そのときの姿は,他人によって振り回されて没頭している姿と見分けがつかないことである。見分けがつくのは自分自身である。そこでストップし,探すことをやめなければならない。本当に必要な探索だけに時間を使うべきだ。必要でないものを追い求めても,それは時間と体力の浪費でしかない。
気になった表現: 絶望が襲ってくる,無駄に時間を過ごす,体力と時間を同時に奪う
まとまらなくてもいいから,気になったことを次々と書いていくというのはどうだろうか。他人に話すのと同じことになる。それも,何でも話せる人である。普通,他人に話すには,自分が今どんな状況にあって,何を気にしているのかを説明しなければならない。しかし,その話し相手が自分自身であれば,前提を話すことなく本題に入っていけるのである。
ただし,他人に話すように説明することのいいこともある。これを忘れてはならない。状況を話して,それに対する自分の気持ちを話すことで,自分の周りをとりまく現実と自分の感情を分離して把握することができるようになるからである。ただし,冷静になりすぎていつの間にか感情を抑えてしまうのは避けたほうがよい。感情はそのまま爆発させればよく,冷静になるのはその後いくらでもできるのだから。今まではこれが間違っていた。感情をそのまま表現するのが難しかったのは,先に冷やしていたからなのだ。状況説明は後でよい。まずは正直な自分の気持ちを表現することが大切なのだ。
キーワード: 相手は自分自身,状況と感情を分離して把握,状況説明は後でする
ここは,私 n のブレインストーミングの場です。ここでは,文章の書き捨てをして,その捨てたものを拾います。思いのままに書いて,文法の制約さえ越えるのが目標です。
普段,私は文法のことを考えながら,校正しながら文章を書きます。しかし,これでは思考が中断してしまい,流れていきません。書くという作業と校正するという作業は,本来は別のものですから,同時に行うことはできないのです。同時にやろうとすると,だんだん流れが鈍くなり,書けなくなってしまいます。
ここでは,「思考を書き出す」ことを何よりも重要なものとし,文法が間違っていようが,言葉足らずだろうが,気にせずに進めることにします。
ほとんどの人にとっては,ここに書かれた文章は意味のないものです。内容は役に立ちませんが,方法は役に立つかも知れません。役に立つことを願って公開します。内容はどのようなものになるか,今のところ分かりません。もし,あまりにもゴミ記事が多くなった場合は,限定して公開するように変更します。そのときはお隣さんやお友達になってください。