今日の自由連想。
気分が乗らないときは,じっとしているのではなく,何かをするに限る。それも,後に残るものがいい。Webブラウジングをするのが一番よくない。ストレスがたまるだけである。何をどこまでやったかもわからないからである。本を読むのはよい。今日はここまで読んだというように,進んだことがわかるからである。進まなくてもよい。その場合は進まなかったことも分かるからいいのだ。
文章を書くのは,少しよい。後に残るからだ。しかし,書いた文が再利用できないのが問題だ。再利用できないゴミのような文章であっても,何もしないよりはマシである。これで少しは気分が晴れる。気分が晴れると,何か,もしかするとやらなくてはならないこと,にも手がつきやすい。
大きな要件を抱えたとき,よく言われるライフハックは,細かく分割することである。しかし,大きな要件の処理をやる気が起きないのは,それが大きいからではない。別のところに原因があるように思う。心理的な要因であることは間違いがない。細かい事案がスタック状に積み重なっていて,一番下から始めなければならないのに,一番下を触るとすべてが崩れてしまいそうな恐怖があるのだ。その恐怖を取り除くには,上から一枚一枚はがしていくのが簡単なのだが,一番下までたどり着けないような気もする。
「やり続ければいつか終わる」
これを心の支えにしよう。
しばらく文章を書いていないと,思考のプロセスに目詰まりが起きてくる感じがする。うまく流れていかない。何かに引っかかっている。しかし,引っかかっているその何かが何なのかはよく分からない。これは困ったことだ。そして,何も考えずに書き続ければ,もしかするとこの閉塞感が打開できるのではないかと,考えてしまう。正しいかもしれないし,正しくないかもしれない。
文章を書くというのは不思議な行為である。自分の考えたことを文字に置き換えていくだけなのに,振り返ってみると自分が思ったことではないように感じるからだ。新しい発見もある。頭の中だけで考えていただけでは思いつかなかったことが,文章を書いて,それを読み直してみることで,見えてくることがあるのだ。
一度自分の外にだして,それを見ることでもう一度自分の中に入れる,というのは,一つの対話である。対話がなければ,議論は深まらない。逆に対話があれば,深く考えていくことができる。私は対話を求めている。勉強をするのに,本の中にすべての知識があるのを知っているが,本を読むのではなく,学校に行くのはなぜなのか。それは教師の話を聞きに行くためではない。自分と同じ程度の人間と対話するためである。教師のような,自分よりずっと先にいる人間の話を聞いても,情報が流れ込むばかりで対話にはならない。対話するには立場が対等でなければならないのだ。対等な人間との対話は,梯子を一段ずつ上るのに最適なのである。教師の梯子は段の幅が広すぎて手や足が届かないのだ。
自由連想。
キーワード: あり得ない状況,トレース小説家というのは,どのように小説を書いていくのだろうか。何人もの登場人物がいて,ある状況があって,それを展開させて行く。だいたい,人格をいくつも保持するのが大変だ。私のように,他人の気持ちが分からないような人間は,他人の人格を作り出すということが想像できないのだ。
小説というのは,ある人格を持つ登場人物がいて,その人物が,あり得ない状況に放り込まれることから始まる。その状況は,状況というのはすべてそうだが,時系列で並んでいるものである。状況を説明するのに,過去からずっと並んでいる時系列の最初から説明していると,人生が終わらない。どこから書き出すかはきわめて重要であるが,極めて困難でもある。
小説というものが面白いのは,そのあり得ない状況に陥った人間が,何を思い,どうやって対処していくかを見ることができるという点にある。自分とは違う状況におかれた人間は,自分とは違う反応を示す。その行動をトレースする。得られるものは何だろうか? 実は何もないのではないか。
元記事は
マグロ:71キロ釣った! 三浦・小6女子の小菅綾香さん、沖縄で初挑戦 /神奈川
「もっと大きな魚を釣ってみたい」と願っていたところ先月下旬、俳優の梅宮辰夫さんに誘われて出演したテレビ番組で大物のマグロ釣り挑戦が実現した。父親裕二さん(48)が同行した。裕二さんは三浦市三崎町小網代の釣り船「丸十丸」の船長。裕二さんによると、綾香さんは3歳から乗船してさおを握っている。
待望のマグロは久米島沖で狙っていた2日目に掛かった。しかし、途中から綾香さんがリールを巻いても糸がびくともしない状態に。綾香さんの力だけではリールを巻けないと判断した裕二さんが糸を指でたぐり寄せながら親子で力を合わせ、マグロを船の近くの水面まで引き寄せ釣り上げたという。
綾香さんのマグロと梅宮さんのマグロを刺し身にしたところ計750人分あった。
なのだが,そこから http://news24.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1214457363/
>梅宮辰夫さんに誘われて
>綾香さんは3歳から乗船してさおを握っている
>がびくともしない状態に
>綾香さんの力だけでは
>けないと判断した裕二さんが
>指で
>たぐり寄せながら親子で力を合わせ
>梅宮さんのマグロえらい文だよなw
という風に読み取る力がすごいよ。
自由連想。
キーワード: 砂上の楼閣,土台,主張を決めない,書いているうちに見つける最初にタイトルを書かなければならないのがつらい。何も考えずに,1日中文章を書き続けることができたら,新しい自分に出会えるかもしれない。新しい自分ではなく,単に疲れた自分であるかも知れない。Voxに書いた文章は読み返すことが少ない。それは,見直すことなく書き流しているからだろう。中心になる主張もないし,脈絡もない。だから,この文章で何がいいたいのかが伝わってこないのである。
それもそのはず。何がいいたいか分からないから書いているのであるから,である。書いているうちに言いたいことが見つかるというのが,この自由連想による文章作成の目的なのだから。自分の思考を,思考したままに,文章として固定していく。そうすると,そこに土台ができて,その土台から次の段階に進むことができる。「砂上の楼閣」であってもよい。楼閣を作るためには,砂の上に,硬い土台を作る必要がある。もし,足元がくずれてしまっても,楼閣全体が崩れるのではない。楼閣の形は保ったまま,傾いたり,横倒しになったりするだけである。すべてが砂に帰すわけではない。
だから,少しでも,なにかの手がかりを残して行くことに意味がある。話し始めてから,ようやく何が自分がいいたいことなのかを知ることはよくあること。それを独り言で綴っていこうというのが,この文章の目的なのである。
久しぶりに自由連想。
雨が降っている。今日は風が強くて,桜吹雪が巻き起こっていた。昼食のとき,食事を一緒にした人が,「そういえば金さんの刺青は桜吹雪じゃないんだってね。女の生首だって。」と言っていた。そんなもの見せられたら,印象に残るどころか,ドン引きである。それを奉行所でも見せているとすれば,かなりの変態だ。それからこんなことも言っていた。「馬に乗っている足利尊氏の絵は,本人じゃないんだってね。下っ端の偉そうなやつみたいですよ。」そうなのか。本当にそうなのか。土器を埋めてドキドキしてしまった教授のおかげで,かなりのウソの歴史を覚えてしまった。過去の事実は変わらないのに,過去について書かれた(事実と称される)ものは変わって行ってしまう。正確になるのであれば,それはそれでいいのだが,一旦覚えてしまったものは簡単には忘れられない。困ったものだ。
過去は変えられないが,過去についての記述は変えられる。一般的な歴史についてみれば,これは困ったことなのだが,個人的な歴史-自分の過去-については,いいこともある。自分が幼いころに受けたことでトラウマになってしまっているものである。その事実を思い出し,子供の頃の解釈ではなく,現在の大人になった自分が解釈をしなおすのである。子供の頃はひとつの方向からしか見られないことも,広い視点を持てるようになった現在なら,ほかの方向からも見ることができる。そうすれば,トラウマが起こす恐怖を和らげることができる。これを自分でやるのはなかなか大変な作業だが,文章にできれば,少しは楽に進めることができる。
今日の自由連想。
この自由連想の作業を始めるとき,何を書くかは考えていない。書いているその場で次の文字を考えていく。その場の思いつきだけで書いていくのだ。この作業では,心理的に盛り上がったり,盛り上がったりしない。感情の起伏はまったくない。平らな心のままである。しかし,この作業が終わると,もやもやしたものが取れるので不思議である。逆に考えれば,心にもやもやが生じたときに,この作業がしたくなるのかも知れない。
今日は,VOX に登録してから1年になるので,無理矢理書いているのである。もやもやがないので書くことがないはずなのに,書けるのはなぜか。心の中では常に言葉で会話しているからである。その会話は自分の中から生まれたものである。
普段の生活において,自分の内部と外部との情報の流れを観察したとき,内部から外部への発信よりも,外部から内部へ流れ込んでくる情報の方が圧倒的に多い。新聞を読んだり,ブログを読んだり,テレビを見たり,ラジオを聞いたりするとき,情報は外部から内部に流れ込む。逆に内部から外部へ流れ出す情報はほとんどない。
これではバランスがあまりにも悪いので,何かしらの方法で外部に情報を発信する必要がある。その方法の1つが,この自由連想の作業なのである。仮にこの文章を公開しないことにしたとしても,この作業は内部からの発信になるし,受け取り手も少なくとも1人はいる。自分である。自分で書いたものを自分で読むというループに意味はあるのかという疑問も湧くが,経験上,意味があると自信を持って言える。心の内部だけで対話をしているのとは別の視点から自分の思考を見直すことができるのだ。
そして心が少しだけ楽になる。
今日の内省。
嬉しいこと,ワクワクすることが沢山起こることを想像してみよう。今までで嬉しいことって何かあっただろうか。子供が生まれたこと? 女とのセックスに成功したこと? 性交に成功? ふふふ。
よく考えてみると,嬉しいこととワクワクすることは別のことだ。ワクワクすることは期待することだ。今までどんなことがあっただろうか。思い出せない。ワクワクすることがなかったのではないかと思えるくらいだ。日記に書いてこなかったから,その記憶の糸を手繰り寄せることができない。だからといって何も感じない日常が続いていたわけでもない。すべては日常の中に埋め込まれている。自分で感じなくしているだけなのだ。
しかし,すべてのことに感じるようにしていたのでは身がもたない。感じるようにするには神経をむき出しにする必要があるが,普段の生活でむき出しにしておくにはリスクが大きすぎるのだ。それを長年の経験から学んだ結果が今の状態なのだ。では鈍感になってしまったのか? 正確には「鈍感にしている」だろう。敏感になるべきシチュエーションを選択しているだけなのだ。
ある一定の状況に自分の身を置くときに,敏感になる。敏感な神経を外気に触れさせるのだ。その一定の状況を作り出すには,儀式が必要だったりするのだが,それをコントロールできるようになっていることが大切なのだ。楽器を演奏するには,ケースから楽器を取り出して構えるまでが儀式になる。自分の心の状態を変えるために外の環境を使う。その環境を作り出すのは自分のコントロールなのだ。
今日の内省。
A4用紙1枚を埋めるのに,約15分かかる。私がやっているのは,1日15分だけである。その間は十分集中力が持続する。これを何セットもやって,自分の限界に挑戦するのもいいかも知れない。インターバルは区切りに入れるといいだろう。例えば,インターバルには紙に書いた文字を入力するという作業を行ってもよい。そうすれば,もう一度読み直すことができるし,漢字が出てこなくてひらがなになっている部分を漢字に直すこともできる。パソコンに入力することは,後で読み返せるようにするためであり,読みやすいように加工する作業になる。
ただし,その作業の中で文法的におかしい部分を直すかどうかは,選択の余地がある。つまり,文法的におかしい部分は読んでいておかしく感じるところでもあるが,思考としてはその間違いを引き起こしている何かがあることになり,もしかすると,その変な部分に自分の思考の特徴が表れている可能性があるからだ。
この日記を始める際に目標にした「文法を越える」はこの意味であって,そこから何か別のことが得られる可能性を潰さないことを言っている。まわりくどく考える自分もいるだろうし,直線的に進む自分もいる。
迷路に入り込んだときに,文法が乱れるのではないか。その迷路をどう解釈するかは,別の問題とすることができる。最初のうちは読みやすいようにある程度解釈し,慣れてきたら変えないようにしていってもよい。自分の思考は日々変わっていくが,なくなるということはない。安心してよい。軌道修正はいつでもできる。
この日記の書き方について。
やり方は簡単。何も考えずに,というよりも書いていることだけに集中して,休まずに書き続けるだけである。この「休まずに書く」というのが重要である。書くのをやめて,いったん落ち着いてしまうと,次に何を書こうかと思案してしまう。そして書く内容を頭の中で再構成し始めてしまうのである。ここではそれを雑念という。文章の構成を考えてはいけない。思いのままを書いていくだけに徹底する。だから次に何を書けばいいか分らないという状態になる。漢字を忘れたときは,そのままひらがなで書いてしまうようにする。漢字を思い出そうとするだけで思考の流れが止まってしまうからだ。どこまで自分の思考に素直になれるかがポイントである。この手法が成功するかどうかは,そのこと1つにかかっている。何も足さない。何も引かない(どこかで聞いたな)。
流れ出るままを文字にしていくという,単純な作業になる。まわりのことに少しくらい気をとられてもいい。ペンが動き続けていればいいのだ。書いているうちに複数の考えが脳裏をよぎるかも知れない。その考えまで雑念として切れとは言わない。雑念があってもよい。しかし,それはメインストリームを邪魔してはいけないのだ。メインストリームは,あくまで書くという作業と,書くということを生み出す思考になる。それだけを守って続けていけば,ほんの数センチ先の未来だけが見えてくるようになる。それを追いかければいいだけなのだ。そんなことをして何になるか? と疑問に思うかも知れない。しかし,やってみると分る。何文字か先しか見えない思考は,思わぬ新しい閃きをもたらす。先に書いた「数センチ先の未来」は,書いているその文字の先の数センチを意味するだけの言葉である。しかし,これは先ほど書いていて偶然出てきた言葉なのだ。書いている瞬間に出てきた。自分から出てきた言葉なのに,感動を覚えた。そういった発見が得られるのである。